女のかぶり物
やっぱり保留にしておく。先送り。
移行対象を持つ子どもを見かけた
今日、電車に携帯電話を忘れたので、駅の忘れ物相談センターに行った。係員に色々聞かれているうちに、隣の席に母親と3歳くらいの男の子がやってきた。親子の忘れ物はすでに届けられていたらしく、係員がすぐにカウンターにもってきた。で、その忘れ物というのが安っぽいハンドタオルであった。まあ、100円とかそのくらいの、少なくとも400円はしなさそうなタオルだ。わざわざ手間をかけて取りに来るより新しいものを買ってもよかったのではないかなあ、などと思っていると、そのタオルは男の子に渡され、男の子がしきりにそのタオルに頬ずりしている。母親の「よかったねえ」という感じの態度。それで係員もピンときたらしく「それがないと、眠れない?(笑)」。同意する母親。
なんというか、こういう他人の移行対象、しかも本当に小さな子どもが持っている移行対象を見るのは初めてだったので、軽い驚きがあった。やはり、今回のタオルのような「ふわふわと柔らかい」手触りのものが選ばれやすいのかもしれない。
移行対象の統計的な調査としては、以下のような論文がある。
http://cur-ren.cjc.ac.jp/17/1/006_127_138.pdf
燃える炭火を積む
Rom12:20の「燃える炭火を積む」という表現の解釈をめぐっては、相手の羞恥心を喚起するという解釈が最も一般的で、他には精錬のやり方を連想して相手の悪い部分を取り除くという解釈もなされているようだが、私としては、これらのような、文脈からも他の記述からも解釈できないような、ヒューマニズムに堕しているのではないかと疑わせるような解釈には同意できない。
どうも、復讐という概念を上手く捉えることができていない場合が多いような気がする。復讐を願う詩篇を読んで信仰者がつまずくのはよくあることだが、その場合、読み方が全く間違っていると言わざるを得ない。恐らくは人間の人間的な感情による復讐と、神の復讐とがまったく異なるものであることを理解していないためにそのような混乱が起こるのだろう。
【新改訳改訂第3版】
140:9 私を取り囲んでいる者の頭。これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。
140:10 燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。
ケルビムの顔
エゼキエル1章に出てくるケルビムの4つの顔は、2つずつセットになっているような気がする。
つまり、前後左右の軸にあわせて、獅子‐牛、人間‐鷲というセットができるのではないか。
獅子は王、牛は奴隷、人間は人間、鷲は神の性質の象徴であり、つまり王‐奴隷、人間‐神という対立項的な軸があるということになる。
この2つの軸はしかし範疇が異なっていて、王‐奴隷の軸は地位に関する対立軸であるが、人間‐神の軸は存在の根本的なあり方に関する対立軸となっている。
その後の記事では牛の顔の位置に「ケルブの顔」があることが記されており、ケルブの立場、すなわちあくまで神のしもべとしての立場が示されている。