アンパンマンについて

 アンパンマンについてちょっと考えてみた。作者のやなせたかしによるとアンパンマンの物語は、善は悪がなければ存在しない、悪も善がなければ存在しない、という相補的な関係を持つ世界として作られている。
 そのような世界観を前提にすれば、アンパンマンバイキンマンはそれぞれの役割である善と悪を演じ分けており、善が悪を完全に消滅させることが物語の到達点ではなく、善が悪を退散させることによって、善が悪に勝つという「価値」を確認することが物語の目的であるということになるだろう。
 アンパンマンバイキンマンは、とくにアンパンマンは、この物語世界を成立させるための生贄であると言える。カバ男やうさ子たち一般人が「自分たちの善は守られた、自分たちは善である」ということを確認するために、バイキンマンはいわば出汁に使われ、アンパンマンは聖なる供物として死ぬのである。
 アンパンマンが死ぬ、というのに疑問をもたれるかもしれないが、実際彼はいつも死んでいる。彼はバイキンマンとの戦いにおいて、しばしば顔が汚れ、本来の力を発揮できなくなり、絶体絶命のピンチに追い込まれる。彼の顔が汚れるのは、彼が守るカバ男たちの共同体が汚れを被ったことの象徴である。それはバイキンマンによってもたらされたように偽装されるが、実際にはカバ男たち共同体のメンバー自身の日々の生活における怒りやねたみや憎しみや犯罪などによって蓄積した汚れである。バイキンマンがしばしばやってくるのは、自らの意思のように見えるが、それは表層に過ぎない。カバ男たち自身の汚れが、バイキンマンというイメージに集約されているだけである。バイキンマンに襲われる、いじめられるシーンというのは、あくまでカバ男たちの心象風景、汚れが外部委託されたことの映像化であって、バイキンマンを実際に呼び込んでいるのはカバ男たちの汚れである。バイキンマンは、カバ男たちの汚れをなすりつけられるためにやってくる。人形流しの人形のようなものである。
 さて、かくしてアンパンマンがやってきて顔を汚される。「顔」というアイデンティティーパーツにも注目したいところだが、それはいまはおこう。そこでアンパンマンには新しい顔が調達される。これはいわば死からの再生である。いままでの共同体、汚れた共同体は完全に死んでしまった。そして、共同体は、汚れを退散させ、新たな共同体として生まれ変わるのである。ここに、汚れを取り除くための不可欠なプロセスを見ることができる。汚れは、単に振り払うとか、掃除するとか、離れるといった操作では取り除くことができない。汚れは元通りにすることができないのである。したがって、汚れたものは死ぬしかない。しかし、本当に死んでしまっては汚れを取り除くことができないでただ死ぬだけである。そこで、死んだことにするための操作が必要になる。それがアンパンマンの顔の取り替えである。共同体の汚れは、すべてアンパンマンが引き受けた。その汚れは彼の顔とともに死んだ。そして、新たな顔とともに、共同体も汚れなき存在として再生するのである。