池内了『疑似科学入門』(岩波新書)読み始めた
id:chazukeさんに読むと言ってしまった手前、読まないわけにはいかない。まだ1章の途中なのにかなりメモが多くなってしまった。
「心のゆらぎ」とは?
池内さんによると、非合理に惹かれるすべての根源は「心のゆらぎ」にあるのだという。そしてそれを後押しするのが認知的なバイアスなのだという。池内さんの議論はそこから始まるのだが、しかしこれは結構考えどころじゃないだろうか。もちろんこの本は疑似科学の内容と分類に重点が置かれているのであって、他の論点に手が回らないのはしょうがないのだが、それにしても「心のゆらぎ」とはいったいなんだと考えると難しい。科学者の著者が心身二元論者というのは考えにくいが、しかし認知バイアスについては心理学的な知見がいろいろ参照されているのに比べて、「心のゆらぎ」と呼ばれる感情の方は当然の前提として出てくる。物質世界を扱う科学は精神世界には深入りしないということなのか。未来への不安とか、そういう感情はなんとなく分かる気もするが、それでも「心のゆらぎ」なんて誰にでもあるからしょうがない、などとは私には思えない。「心のゆらぎ」について、その発生過程をきちんと観察すれば、構造的な問題が見えてくるだろう。そこを見失ってはいけない。池内さんの図式では、「心のゆらぎ」→「認知的バイアス」→「社会的背景」という順序で疑似科学の正当化が進行するとされるのだが、「社会的背景」→「心のゆらぎ」というルートを見落としてはならない。
素朴な祈りの気持?
池内さんはお御籤や神社仏閣への願い事を、というよりそういう行為にいたる気持ちを、個人的に閉じていれば一概に否定できないものとして捉えているようだ。しかし、その気持ちのことを指す「宗教心に由来する祈りに似たもの」とは一体なんだろうか。だいたい「祈り」というものからして難しいテーマなのに「似たもの」ってなんだろう。たぶん「心のゆらぎ」と同義で使われているのだろうが、しかしそれに加えて宗教的な要素が与えられている。ある種の宗教性を許容するということになると思うのだが、その内実は「そういうことって、わかるよね」みたいな感じで、具体的説明はなし。それにこれらが個人に閉じているというのは間違いではないかと思う。社会の中にそういう行為が存在している以上(しかもお御籤や神社仏閣というのは主流の文化だ)、それは共同性を帯びているのであり、他者との軋轢をまぬかれるものではない。
付随事物への人生の転化
自分の生き方を省みるより、名前の字画や○相占いのような外的事物に運命を読み取るのは問題だと言うのだが、何が問題なのか書いていない。いや、少し考えれば分かるからいいのだが。でも書いてないよ。
政治的洗脳はありうるか
疑似科学にはまっていくうちに、教祖の政治的な扇動にも従ってしまうのではないかと池内さんは危惧しているが、香山リカの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』で述べられているように、そういうことは少なくとも現在の日本のスピリチュアルに関する限り、蓋然性は低いと言えそうだ。消費者は自分のニーズに合致するところだけをもって行き、教祖の根本的政治思想なんかは目に入りもしない、というのが実情のようだ。この特徴はオカルトブームの社会的考察にとって重要なポイントとなるだろう。また、既存の伝統宗教と新興するオカルトとの差異(後者ばかりに人気が集まる)を考える上でも役に立つ知見だろう。
血液型診断の話
血液型診断については、今日あまりにもそれが人口に膾炙しているため、予言の自己成就的に血液型診断の通りに振舞ってしまい、診断が当たってしまうという事態もありそうだ。確か大学時代に買った心理学の教科書にそんなことが書いてあったと思う。人間がたったの4種類に分類できるわけない、ということについては、全人格的な意味でならそのとおりだし、ある一定の視点からの分析なら4種類に分けることもありうる。文脈からして前者の意味で言っているのは明らか。
精神世界
かなりすっぱりきっぱり物質世界と精神世界という分類が使われている。いいのか。いや、無理だろうな。思想・良心の自由は内面の自由は認めるけど、国歌斉唱で伴奏や起立をしないのは認めないとかいう話を想起してしまう。水準としては別の話だが。しかしこれが言われている文脈の中で批判されている内容については納得できる。特に歴史も絡んでいないし、実験的に反証されている主張は間違いである確率が高いだろうし、科学と名乗ってしまったら負けだろう。具体的な現象を起こす、という意味での物質世界なら、おおむね納得できる。
科学者が騙されやすい
面白い話。手品師のネタを見破るのは同じ手品師。騙されるのは科学者。特定分野の専門的知識と科学的思考力は必ずしも両立していない。
宗教の定義(p.13)
ありえない。しかも想定している宗教の概念が、特定の宗教にしかあてはまらないか、著者の頭の中だけに存在する宗教のようだ。しかし無神論的な一般人の感覚としては常識的。また、ここでも物質世界と精神世界を分ける枠組みが使われている。宗教と擬似宗教の判別をする基準には達していない。それにしても宗教とは何か。実は宗教とはこういうものという前提から話が始められる宗教の話は多く、まじめに宗教とは何かを論じている話にはなかなかお目にかかれない。池内さんは少なくとも自分の考える宗教をある程度明確に定式化しており、非常にすばらしい。
脅迫集団としての擬似宗教
ある程度は納得。しかしたとえば親が子どもを叱るときに「○○をすると××になるぞ」と言うなどとということを考えると少なくともその世界観の中ではそれと同じ図式になっているのだろうからなあ。といっても、私は唯一正しい基準以外は認めないが。だが、それを一般に押し広げるのは困難だというのは承知している。
進化論
池内さんの議論では創造論をとっただけで、科学的な議論に参加しなくても疑似科学になるように見える。そもそも進化論の話の前に占いやお御籤の話も出てきたが、これらも疑似科学になる。しかしこれらに「科学」という枠組みからアプローチするのは変じゃないかという気がする。別に科学を名乗っているわけではないのに疑似科学と呼ぶというのは、「科学」がついている分、かえって疑似科学を助長するのでは? 日本では進化論が大々的に論争になったことはないけど、それはちゃらんぽらんに考えていたせいであって、きちんと理解していたわけではないという話には、なぜか溜飲が下がる思い。
科学に対する現代人の意識
現代人は科学がもたらした害悪に対する憎悪が大きくなっているのだという。果たしてそうだろうか。科学の信頼低下を考察するにはもうひとつかな。
「信じる」とは何か
池内さんは使用する言葉についていちいち定義するところがすばらしい。池内さんによると「信じる」とは、「不確かなこと」に対して、「こうであると想定すること」だという。ある程度はこれで説明できる部分もあるとは思うものの、やはり浅い考察であると言わざるを得ない。
擬態
科学的に考えるなら、擬態は生物が考えてやっているわけではない。まあ、細かい表現の問題だが。
カマキリの卵の産み付け位置と降雪量の話
私の父が勤めている会社の会長が長年の工学的研究によって実証しました。*1詳しくは『カマキリは大雪を知っていた』(農山漁村文化協会)を参照のこと。『SFが読みたい!2004年度版』の科学書レヴュー欄でも紹介されています。
- 作者: 池内了
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カマキリは大雪を知っていた―大地からの“天気信号”を聴く (人間選書)
- 作者: 酒井与喜夫
- 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
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