2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「なぜ人を殺してはいけないのか?」についてのメモ

条件付きで人を殺してもよい、と考える立場と、人は何があっても絶対に殺してはならない、という2つの立場がある。 条件付き殺人をよいとする者は、ルールを共有していない他者からの攻撃を論理的に不当だと言いうるか、と問うてみる。 私は、そのように問う…

一般大衆にとっての「大きな物語」

え、中流幻想は違うの? 高度経済成長の波に乗って、理想のライフスタイルを実現することが一般大衆にとっての大きな物語だったという理解をしているんだけど。

うらやましいと思ったこと

inumashさんの記事より。 昔、熱心なカソリックの女の子が『この世界は神がお造りになったのよ!だって聖書にそう書いてあるじゃない!』とか言ってた 私もこんな風に言える信仰がほしい。ところで、この女の子のことばは字面上はまったく荒唐無稽に思えるか…

多文化主義内の普遍主義との関係における暴力

現代において、特に自由主義の国では、普遍主義はもはやまったく人気のない考え方だといってよいだろう。普遍の僭称は他者を抑圧する暴力となり、悲劇を呼び起こす、というのがコンセンサスであり、そこまで考えなくても、「おしつけはじゆうがなくていやな…

疑似科学についての断片その2

疑似科学批判をする人の誠実さを認めるということを少し前の記事で書いたが、正確に言うなら、そういう誠実な人も複数いる、ということになる。 しかし、多くのブログ記事で見られるような、批判の域にも達していないような疑似科学批判(というより疑似科学…

原理主義的なキリスト教徒が理科教師を務めることがそれほど難しくないことについて

以下の記事について。 http://d.hatena.ne.jp/eirene/20080625/1214370547 以下、リンク先記事より引用。 現代の学校で教える理科(=自然科学)は、経験主義的な無神論のパラダイムに基づいている。これと創世記の天地創造論を文字通りの意味で信じる態度は…

信じているふり?

大澤真幸の『不可能性の時代』(岩波新書)を読んだ。その中で「信仰の外部委託」という概念が出てくるのだが、この内実がいまいちよく理解できない。 ということは、もっと率直に言ってしまえば、多文化主義の下ではほんとうは(教義を)信じてはいけない、…

疑似科学についての断片

改めて考えてみたら科学への信頼が低下しているというのは、科学であることを標榜する疑似科学が蔓延する根拠にならない。しかし、疑似科学の言う科学は本当の科学ではない、という言い方はできる。それでもそれは科学への信頼とは結び付けられないように思…

ファンタジーについての断片

『指輪物語』の内容については、非常に詳細で壮大な体系の中の物語であることが知られているが、そのような物語が作られたのは、ひとつの単なるお話としてではなく、もっと切実な何かなのではないかという気がする。 なんだかんだと言っても、ファンタジーに…

疑似科学問題の根底にあるものは何か。

私が一つ誤解していたことだが、疑似科学にはまっても実生活上にたいした影響はないと思っていた。その誤解についてはここで詫び、改めたいと思う。しかし、それでも私は、疑似科学批判を行う人たちの誠実さを認めつつも、疑似科学に関する言説にはある無意…