「なぜ人を殺してはいけないのか?」についてのメモ

 条件付きで人を殺してもよい、と考える立場と、人は何があっても絶対に殺してはならない、という2つの立場がある。
 条件付き殺人をよいとする者は、ルールを共有していない他者からの攻撃を論理的に不当だと言いうるか、と問うてみる。
 私は、そのように問うてみたときの、問うた者の視点はどこにあるのか、を問題にしたい。その視点は、あるルールに基づく立場と、そのルールを共有していない立場を並列に置いている。いわば、両者を比較対照できるメタな視点に立っている。このメタ視点は果たして分析の対象にしなくてよいのか。
 ところで、ルールについて考えてみる。ルールはどのように設定されているのか。ルールはそのルールを措定するのをよしとするような世界観に基づいて設定されていると考える。すると世界観はルールよりも上位の判断基準になる。ルールの水準の比較では、2つの異なったルールの優劣比較はできず、ただ並列的に存在しているとみなされる。しかし、世界観はルールよりも上位の水準にあり、並列的な他の世界観が存在しない水準にある。それをさらにメタに比較対照する視点をつくることはできるが、そのような比較対象の操作を行った時点で、主体的な世界観は客体的な世界観へと転じ、変化をこうむってしまう。そのような客体的な世界観を措定する視点を、主体的な世界観がさらに包摂する。この循環関係には際限がない。
 主体的世界観による包摂がなされている水準では、ルールの非共有は決定的な問題ではない。そこには比較可能な世界観は存在しないからである。