2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧

偽りの能動性?

ジジェクは〈予定説〉の信仰のあり方を単なる「偽りの能動性」としてしか捉えていないようだ。架空の大文字の他者を維持するための実践。しかしこの理解はどこか誤解を含んでいるように見える。つまり、信仰のみによって救われるということが理解されていな…

個人の儀礼と共同体の儀礼

卒業式の日に茶髪とスカート丈を理由に教師が生徒を別室で説教していたら生徒が教師にはさみを押し当てたという話だが、これはなかなか面白い問題である。というのは、卒業式の位置づけについての対立がそこに垣間見えるからである。そもそも儀礼というのは…

可視化された内なる他者

私という存在が現にあるこの私であるということには、なんの必然性もないように見える。私の人生は今とは別のああでもこうでもあるような人生だったかもしれないが、しかしそのどれでもないこのような人生を送り、今のような私になった。しかし、私が私を私…

ひぐらしのなく頃にについて

「ひぐらしのなく頃に」のアニメ版を視聴したのでメモを。この作品においては、人間の脳に寄生する寄生虫が原因となり、特定の地域に住む人間がとつぜん凶暴化するという設定がなされている。しかし、その設定は物語終盤まで明かされない。そこで、作品中で…

電脳コイル――補足

さて、前回は「イサコは孤独な存在」と単純化してしまったが、二人の少女が互いに背反的な鏡像であり、共通の精神的基点を持っているからこそ二人の少女を対にして描くことができるのであり、それゆえイサコもまた、成熟を要請される存在であることを見逃し…

電脳コイル――最終話視聴前の小括

電脳コイルもまた、二人の(意図的に)対照的な属性の少女たちの物語だ。 物語は反復されている。反復は失敗した自己を望ましい形に書き換えるために行われる。ヤサコはかつて友達を見捨てた過去の自分を書き換えるため、イサコを助けに向かったのである(構…

肉体的生存

生き物として生きていることについて私が考えるのが難しいのは、それが最上の価値とは思えないがしかし原則的に肯定されるべきものであり、それでも極端に優先されることでもないという微妙さによるのではないかと思う。社会はみんなにごはんと医者がいきわ…

お酌と贈与

お酌という文化は、マルセル・モースが『贈与論』で論じた贈与の体系でかなり説明できるような気がする。最近お酌には「ご返杯」というものがあり、それを受けないことは「失礼」だとみなされるということを知った。なんで与えないならともかく、受けないこ…