偽りの能動性?

 ジジェクは〈予定説〉の信仰のあり方を単なる「偽りの能動性」としてしか捉えていないようだ。架空の大文字の他者を維持するための実践。しかしこの理解はどこか誤解を含んでいるように見える。つまり、信仰のみによって救われるということが理解されていない。信じていることを認めているなら、それは救われていることを示すのだから、そこではその人の救いは全く不確かではない。むしろ自分が救われているのかどうか不安に思うような人の方が本当に救われているのかどうか怪しい。まあ、もしかしたら当時の〈予定説〉信奉者はそこらへんがわかってなかったのかもしれないけど、それじゃあ片手落ちと言うもの。
 それにしても、神の選びは難しいテーマなのであまり触れたくないのだけど、偶然と必然と自由の関係をちょっと考えればその複雑さには容易に気づくことができる。偶然だけでも必然だけでも、そこに自由の余地はないように見えるというところがなんとも。