個人の儀礼と共同体の儀礼

 卒業式の日に茶髪とスカート丈を理由に教師が生徒を別室で説教していたら生徒が教師にはさみを押し当てたという話だが、これはなかなか面白い問題である。というのは、卒業式の位置づけについての対立がそこに垣間見えるからである。そもそも儀礼というのはその儀礼の意味を支える共同体の文化が想定されることで初めて成り立つもので、卒業式もそのような儀礼の一つである。生徒は卒業式を破壊したかったのではなく、そこに出たいと考えていたのだが、この生徒と教師とでは、卒業式の意味を担う圏域が異なっていたので対立が生じたのである。
 説教した教師にとって、卒業式というのは自分(たち)の教育事業の集大成の披露宴である。そこでは、自分(たち)がいかにうまく生徒を教育し終えたかを示すということが主眼となる。したがって、生徒をうまく教育しているということの暗黙の文化的指標(茶髪でない、スカートが短くない)にチェックが入れられる。もちろんこれは単なる協約的な指標であって、実際のところそれが真に教育の成否を表すのかどうかは問われることはない。自分(たち)が所属していると想定される文化の象徴的秩序を実現しているかどうか、という点が問題である。
 対して、生徒にとって、卒業式は全体的な文化の秩序の実現のために行われていない。彼女の儀礼は、非常に個人的な領域において実現されんとしたように見える。儀礼の個人化、というのは社会的な流れだと思うが、はさみを教師に押し付けたという事実には儀礼の個人化に伴う危うさが垣間見える。当人にとってのみ、意味のある形で儀礼が行われれば良いとすれば、他者を傷つけてでもそれを実行するということがありうるからである。神戸の少年による殺傷事件などはその極端な例である。今回ニュースになった少女などはそれでもまだ線分の一方の端に、つまり共同体的な卒業式の形式に近い側にいると言える。