進化論と神の創造を信じる信仰は調停不可能だし、また、調停する必要もない。神の創造を信じる語りは創造論とも呼ばれるが、そもそも「論」になってしまった時点で戦う土俵を間違えていると言わざるを得ない。進化論と神の創造は同じ土俵で戦ったりしない。無論、生物は(神が進化させたという言説も含めて)進化してきたか、進化せずに最初から神が造ったかのどちらかである。どちらかが誤っていることは間違いない。そういう意味では両者は明確に対立する。相手を攻撃することもありうる。でも、議論はできないと思う。
人間にとって、科学的な方法論の方が合理的で知性的に見えることは疑いえないと思う。だから、神の創造を擁護する側も、自分たちの認識方法をうまく説明したり説得したりできないこともあって、つい科学的な物言いに頼ろうとしてしまう。そこがボタンの掛け違いみたいになっている。科学的に見たら愚かとしか言いようのないもの、無知蒙昧で狂っているもの、それが信仰である。だが、それがどうしたというのか。信仰者にとって重要なのは「神の知恵」であって、それが多くの人に認められないことは織り込み済みで生きなければならないはずだ。無知と言うなら言え、という態度が必要である。信仰者の論理は信仰者にしか理解できない、はずなのだが、信仰者でもそれが実は分からないこともある。
科学的な知性の素晴らしさは色々と尊敬に値する。しかし、信仰に抵触しない限りは。そもそも科学的ってどういうことなのか、分からない部分もあるのであんまり科学的科学的言いたくない部分もある。ただ、科学的の内実がどうあれ、それは信仰を必要としない以上、信仰が目指したりもっと言えばすり寄ったり、同じ土俵で勝とうとしたりするようなものではない。信仰を持って生きる、ということは、科学的な議論なんかよりもっと生産的なことをして生きるということである。