学生の時に「思想的なもの」の入り口が物語論入門的なものだったので、いまでも割と物事をとらえるときの発想は物語論的である(ただし入門レベルからいつまでも脱しない)。
信仰の正しさというのを合理的に証明しようとする無意味さに気づいたときに*1、ごく個人的な興味と自分自身の信仰的活動の指針として、信仰をどうとらえるかという問題が浮上した。それを考えるための一つの道具たてとして、物語という概念が使えるような気が最近している。
物語というものをどのように我々は理解するのか、ということと、信仰の在り方は似ている気がする。物語というのは、一般的に言って科学的な説明とは異なった語りの様相を呈している。もちろん、ある広義の視点で見れば、科学的説明も一つの物語の類型として見ることも可能かもしれないが、合理的に事象の解明を行おうとする科学的説明と、小説、映画、まんが、アニメといった一般的に物語と呼ばれるものを同一のカテゴリーに括るには、かなり抽象的な定義を行う必要があるだろう。ごく素朴な感覚として、科学における論証と、我々が普通の社会生活において「物語」と呼んでいるものが「同じ」であるとは到底思えない。
私が興味深く思っているのは、こうした物語の内容を我々が合理的な論理の帰結とは別の水準で構造的に把握するという事態である。物語の展開に、我々は合理的な説明を超えた理解を見出すことがある。それは静的な論理の帰結においては到達できないものであり、物語が時間とともに進行するその過程、展開、シークエンスの積み重ねによって獲得されるものである。
もちろん、唯物論であれば、このような物語の把握もまた、進化的に獲得された脳の働き方の一つとしてみなすことだろう。私が語ろうとしていることは、どんなに語り口を変えてみたところで信仰者のことばであり、不信者の心に届くことはない。しかし、それで構わないのである。それよりむしろ大事なことは、信仰というのがそれぞれの主体の個別的な経験であるということである。私ができれば自分が納得できるように説明したいと思っていることは、信仰というものが、時間的な流れの中で、一人称的に得られるものだということである。すべては、「私にとって」ということを考えるところから始まる。私が私の物語を生きる、という視点に立って初めて、信仰というものを理解することができる。この信仰の一人称性とでもいうべきものが、信仰を客観的、科学的に説明できない理由となっている。

*1:といっても、証明ではなく補強することはできるし、必要だと思うが。