可視化された内なる他者

 私という存在が現にあるこの私であるということには、なんの必然性もないように見える。私の人生は今とは別のああでもこうでもあるような人生だったかもしれないが、しかしそのどれでもないこのような人生を送り、今のような私になった。しかし、私が私を私として統一的に感じるためには、そのような他でもありえた可能性は隠蔽されなければならない。
 二人の少女の物語における主人公の片割れというのは、私が今とは異なる他でもありえた可能性の可視化であると考えることができる。可視化された内なる他者は移行対象であるがゆえにやがて捨て去られる運命にあるのだが、しかしどうせ捨て去ってしまうものをなぜわざわざ必要とするのだろうか。
 順を追っていくと、まず、おそらく、移行対象の出現は、個人史の特異点を反復(し超克)するための準備なのである。内なる他者が自覚されない限り私の個人史はそもそも個人史として振り返られることもなく、日々遂行されていくだけである。しかし、内なる他者が自覚されたとき(自分が今の自分とは違う他でもありえた可能性を自覚したとき)、今の自分はどうして今の自分になったのか、という個人史への問いが開かれる。移行対象はそうした問いが開かれている期間に、不安定化された自己を支える役割をも果たす。
 ところで、そもそも、内なる他者が可視化されてしまうのは、私を私として統合する視点の力が緩んでいるためである。個人史への問いの終焉と内なる他者との別れは、この統合する視点の獲得によって同時になされる。このとき、移行対象への同一化は解決にはならなず、統一的な視点がゴールだ、という点に注意が必要である。なぜなら、移行対象は本来的に私ではないからである。私ではない者に、勝手に私の可能性を見出した対象が移行対象である。だから、いずれは私との差異が前景化して、同一化しきれなくなってしまう。これが、移行対象が捨てられる理由である。