ひぐらしのなく頃にについて

 「ひぐらしのなく頃に」のアニメ版を視聴したのでメモを。この作品においては、人間の脳に寄生する寄生虫が原因となり、特定の地域に住む人間がとつぜん凶暴化するという設定がなされている。しかし、その設定は物語終盤まで明かされない。そこで、作品中で凶暴化する人物が寄生虫によってそうなっていることを知らないであるいは気づかないで視聴していると(私はそうだった)、その人物の言動は何らかの精神障害を負っているようにしか見えない。それは真の設定としては誤った推論なのだが、しかし虚構の設定を離れて登場人物の言動を現実の現象に当てはめようとすると、それは精神障害としてのリアリティにもっともよく当てはまるように見える。
 この作品には竜宮レナという少女が登場するが、この人物をオープニングシーンで見たとき(あるいはもう少し話が進んだ序盤の頃だったかもしれないがともかく視聴し始めてすぐのことであるが)、私は、この少女がリストカットをしている、と思った。それは彼女のビジュアルがリストバンドをしているものであったことが関係してることは否定しがたいが、しかしそれだけではリストカットをしていると推察するには十分ではない。オープニングにおける、彼女の鉈を持った映像、腕から血を流して歩き、それをなめるという映像、うつろな瞳、すなわち全体としての狂気の演出と出血との結びつきがリストカットを連想させたのである。そして事実、物語終盤では彼女がリストカットをしていたことが明らかとなる。ところで、本作における寄生虫を原因とする病は、感染者が大きなストレスを抱えたときに発症し、感染者を凶暴化させるという設定があるのだ。そして彼女は家族との関係に問題を抱えていることが作品中で描かれるが、この家族関係の問題から大きなストレスが生じ、そのことによって寄生虫を原因とする病が発症し、凶暴な行為におよぶことになる。
 ところが、寄生虫による病の設定は、終盤まで(原作を知らない)視聴者には分からない。するとどうなるかというと、感染者のストレスの原因、たとえば竜宮レナであれば家族関係の問題が、直接彼女の精神的な障害とそれによる狂気的行為をもたらしたように見えるのである。
 ここで、私が抱く一つの解釈は、この作品は、ある一定の期間が何回もパラレルワールドとして反復される(連続した放映期間でこのようなことをしたのはアニメでは本作が初めてらしい)ということも含めて、本作が全体として何らかの精神障害解離性障害?)を象徴的に表現しているということである。リストカット、突然の凶暴な行為、以前自分が犯した凶暴な行為についての記憶がない、足音が一つ多く聞こえる、誰かが枕元に立っていると感じる、これらの寄生虫による病の症状は、解離性障害の症状として報告されているものに当てはまる。
 そして、作品終盤で登場人物たちの仲間にいままでの世界をずっと見続けていた(すなわち解離した世界をつなぎ合わせることが可能な統一的視点である)「神」が加わることによって、問題が解決に向かう。
 解離とは、精神医学的にいえば自己が自己としてのまとまりを欠いていることに対する苦しみなのだが、いささか思想的な色味をつけていえば、今とは違う、ああでもこうでもあり得たかもしれない自分への欲望の表現である。しかし、いつまでも自己が定まらないので苦しい。しかしどうやって定めるのか、そのための基準はもはやないではないか、というわけだ*1。そこで、羽生という「神」を投入し、「はいここまで」と宣言させる。まったく笑ってしまう。
 逆に、敵である鷹野美代は「おじいちゃん(の研究)」という擬似的な「神」を自己に投入することで強力な主体を形成している。それが打ち砕かれ、条件的承認から無条件的承認へと移行するお話はベタだが、しかし問題は「富竹」はどこからやってくるというのだ、ということである。
 

*1:このあたりの話題はたとえば浅野智彦のナラティブ・セラピーの動向の解説でもいいし、大澤真幸の議論、香山リカの解離についての話とか、その他彼らの周辺の論客たちが多重人格とか解離とか本当の自分とかいってればほとんど同じ話だと思っていい。