多文化主義内の普遍主義との関係における暴力

 現代において、特に自由主義の国では、普遍主義はもはやまったく人気のない考え方だといってよいだろう。普遍の僭称は他者を抑圧する暴力となり、悲劇を呼び起こす、というのがコンセンサスであり、そこまで考えなくても、「おしつけはじゆうがなくていやなのではんたいでちゅ」という感覚は一般的になじみのあるものとなっている。
 しかしながら、普遍主義と他者の抑圧あるいは暴力は、必ずしもいつでも直接的に結びつくわけではない。たとえば、フランスにおいて、女子学生の(イスラム信仰を示す)スカーフの着用が禁止されたことを想起されたい。女子学生が自動小銃自爆テロ用爆弾を持っていることが禁止されたのではないのだ。そこでは、普遍主義の方が多文化主義によって抑圧されるという構図が出現しているのである。このスカーフ禁止の事例は大澤真幸も『不可能性の時代』で論じているが、多文化主義が認める「多文化」とは、あくまでも個人の趣味のようなものの範囲内でしかない。普遍へのコミットは拒否――いや抑圧されてしまうのである。ここにおいて、多文化主義の人々は無意識の原理主義者となってしまっているのだ。
 多文化主義は、往々にして抑圧される被害者に配慮した思想として喧伝される。しかし、もはやそのような安易な認識は成り立たないことが示された。普遍主義の暴力を糾弾するだけの言説はもはやアクチュアルな意義を持っていない。少なくとも、抑圧的な多元主義という現実を踏まえなければならない。