疑似科学問題の根底にあるものは何か。

 私が一つ誤解していたことだが、疑似科学にはまっても実生活上にたいした影響はないと思っていた。その誤解についてはここで詫び、改めたいと思う。しかし、それでも私は、疑似科学批判を行う人たちの誠実さを認めつつも、疑似科学に関する言説にはある無意識的で時代反映的な感情が潜んでいると考えている。
 そのことを端的に示すのが、科学哲学者の戸田山和久が『科学哲学の冒険』で述べている発言だと私は考える。

リカ――(略)センセイはなんで科学的実在論を擁護したいんですか?
(中略)
センセイ――(略)科学への信頼を取り戻したいなあ、という漠然とした気持ちがあるのね。

 ここで戸田山が科学への信頼と述べているものは2種類あり、ひとつは「この世界がどうなっているのかを明らかにしてくれるのはまず第一に科学のはずだ」ということであり、もうひとつは若い人の「世界の丸ごとを分かりたい」という気持ちや社会全体のそういう活動に払う敬意を指している。
 私はこのような問題の最も重要な論点は、リアリティにあると考えている。つまり、戸田山がいうように科学への信頼が失われているとすれば、それは科学が多くの人にとってリアリティのないものになってきているということではないだろうか。そして疑似科学批判者が真に擁護したいものは、科学的世界観によって構成されるリアリティであるように思われるのだ。疑似科学にはまってしまう人の問題もまさにおそらくはリアリティの問題が大きく関わっている。私が想像するに、疑似科学批判批判者たちがことばにできていないもどかしさというのは、多くの疑似科学批判が、そうしたリアリティの問題系を無視して展開されており、対症療法的な論点しか提示しないということにある。
 疑似科学にはまることでひどい状態になる人のことが引き合いに出されることもあるが、それは、だから疑似科学を批判するだけでよい、ということにはならない。それははまる人のリアリティを無視しており、問題系列の有害な限定をもたらすと私は考える。
 疑似科学批判批判者も、ことばが未成熟なところがある。彼等は、「懐柔すべきだ」というあまりに具体的な方法を述べるのではなく、リアリティという論点を組み込むべきだ、と主張した方がよい。

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

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