ファンタジーについての断片

 『指輪物語』の内容については、非常に詳細で壮大な体系の中の物語であることが知られているが、そのような物語が作られたのは、ひとつの単なるお話としてではなく、もっと切実な何かなのではないかという気がする。
 なんだかんだと言っても、ファンタジーには現実逃避の作用があるのは間違いない。いま・ここにあるつらく厳しい現実ではなく、もうひとつの現実を作り出すことはファンタジーにとって宿命的なものにも思える。これはまた自分で調べていないことではあるが、ベトナム戦争時のアメリカにおいて『指輪物語』はまさに現実逃避文学として受容されたという話を読んだことがある。
 トールキンが自分の物語に暗喩を読み込まれるのを拒んだ、という話を読んだときに、私はそれを善意に受け取ることはできなかった。あれだけ壮大な年代記=もうひとつの現実世界を構築したトールキンの思いは、自分の物語を他の現実に依存しない、それ単体で独立した神話に仕立てるということではなかったかと私には思える。
 ただ、以前『ホットロード』や『寄生獣』と移行対象について触れた記事で書いたように、人はその成長の過程で困難に出会い、独特のもうひとつの現実を必要とすることがあるのは確かなのであって*1、そのプロセスを私は否定したくはない。むしろ、プロセスを重視する限りにおいてなら否定しないと言うべきかもしれないけれども。
 他にファンタジーへの批判と擁護について思うところはまだあるのだが、それはまた改めて述べてみようと思う。

*1:はてなダイアラーのchazukeさんの、娘さんが「CLAMP」を必要としたのもそういうことだろう。