ケノーシスと普遍的価値

 ケノーシスについてちょこっと考えたんだけれども、ケノーシスというのは単に身を下げたり弱くなったりすることではないのじゃないか、と思う。というのも、ケノーシスには、彼の者は元来高貴な者である、という意味が含まれているからである。つまり、時間的なつながりの中における状態の移行が意識されていなければ、それはケノーシスではない。単に身分が低い、弱いという静的な同定では、ケノーシスの本質を捉えることはできない。では、ケノーシスにおける〈状態の移行〉にはどのような意味があるのか。ここで、私はひとつの補助線として、物語論的あるいは文化人類学的な観点を導入することを提案する。かなりラフな図式ではあるが、物語の最も基本的な展開順序は初期状態→初期状態の損傷、混乱→回復である。また文化人類学的知見によれば共同体への加入のための通過儀礼は分離→移行→再統合の段階をたどる。ケノーシスにおける〈状態の移行〉をこれらに当てはめれば、初期状態→初期状態の損傷、混乱、また分離→移行の段階がこれに相当する。そして、私の考えでは、ケノーシスはその次の段階、回復、再統合の達成されるとき、はじめてその完全な意味に到達するのである。身を下げる、弱くなる、という行為(静的な状態ではない!)は、身分の低さや弱さをそのまま肯定する思想にはならない。むしろ、初期状態に勝る高貴と強さを獲得するための思想だ。そこで図られているのは、うまく言えないが、状態の更新とでも呼ぶべきものである。以前、『おれがあいつであいつがおれで』について書いたときに、出来事の経験によって世界が出来事の経験以前とは違って見えるという点について少し触れたが、図式としてはそれと全く同様である。
 ところが、ここで問題が起きる。というのは、ケノーシスがそのように最終的な状態の更新を目指しているものだとすると、きちんとすべての段階が予定通りに行かないと、ケノーシスは場合によっては実現しないということになるのである。そしてこの世界はまさにそんなに物事が思い通りにいくようには見えない。それならケノーシスを経験しようとするモチベーションはどのようにして供給されうるのか。それは恐らく、ケノーシスの意味に関わっている。通過儀礼は共同体への加入儀礼であるが、ケノーシスの意味もそれを支えるのはケノーシスの行為を支える全体的価値である。しかし、ケノーシスの程度を極限まで突き詰めればそれはあらゆる共同体を否定する。なぜなら、身を下げる、弱くなるというのは共同体の中においてその価値体系の中でネガティブな評価を受けることであるからだ。そして、そのようにケノーシスを極限まで突き詰めたとき、あらゆる地上の共同体を無化する超越的審級が姿を見せ、普遍的価値=神のもとにある世界の中にその身が投げ出される。