『じぶん、この不思議な存在』

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 2,3週間前に『じぶん、この不思議な存在』を読み終えたので読書ノートをつけておく。記憶力が悪くて大分内容も忘れてしまったけれども、よれよれの脳みそでなんとか頑張ってみよう。
 この本の中で、顔がある、顔がない、という話が出てくるのだが、多分レヴィナスという人の議論を念頭においているんじゃないだろうか。レヴィナスの哲学を私はよく知らないけれども、顔に対する責任とか、そんな話は少し前から耳にするようになった。
 私はその顔に関する話を耳にするときにいつも思うことがあるのだけれども、というのは、顔というものに対して人が何かを受け取るなり感じるなりするとして、それはその出来事の成り立ちの根本ではないという気がするのである。どういうことかというと、顔に対して何かを受け取る、感じる、というときに、なぜ顔に対してそのように受け取ったり感じたりするのかということを疑問に思ってしまうのである。顔に対して何かを感じるということと、その感じたことに対して何かをなすべきだということとは別の水準にあるはずだ。そこで考えるに、事態はこうなっているのではないか。あることをなすべきだ、という道徳がまずあって、その道徳の存在を知らせるシステムとして、顔に対して何かを感じるという現象があるのではないだろうか。ジュッテキソクインノココロというのが儒教だったか中国の教えにあったと思うが、それも同じで、どうしてジュッテキソクインノココロが起こるのか、というところは考えないで居る。
 いずれにせよ、どうしてそういう心が起こるのか、という疑問が起こる。それに対して、それはそういう心を起こさせるような道徳があるからだ、というのが真理だったとしよう。しかし、さらに、どうしてそんな道徳があるのか、という疑問が出る。そこで、神が定めた、とすると丸く収まるのだが、神は哲学的にも*1科学的にも心情的にもいると言えそうにない、ということになって、じゃあ「顔が見えんのかコラッ」ってあたりで押し切りましょう、という結論になるんじゃないかと思った。

*1:でもスピノザって考えてたよな。汎神論らしいけど。