原理主義的なキリスト教徒が理科教師を務めることがそれほど難しくないことについて

以下の記事について。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20080625/1214370547
 以下、リンク先記事より引用。

現代の学校で教える理科(=自然科学)は、経験主義的な無神論パラダイムに基づいている。これと創世記の天地創造論を文字通りの意味で信じる態度は、基本的に両立しえない。聖書の記事を文字通りの意味で信じたい。そのような信仰を守りたいのなら、理科教師を辞めるのが筋であろう。

 私はアメリカの教育事情には詳しくないが、少なくとも日本においては「そのような信仰」を持っていたとしても理科教師をすることに支障はない。
 まず、ニュースにおける暴力行為は聖書を文字通りに信じるがゆえというより、所属宗派か、個人的な資質が原因である(少なくとも、「そのような信仰」ゆえであるとまではニュースからは読み取れない)。だから、「そのような信仰」→「問題行動」という因果図式はひとまずは成立しない。
 次に、学校教育における理科は、あくまで(実際のところ)「理科」という一つの教育活動なのであって、理科(=自然科学)という理解は少なくとも現状を適切に表現したものではない。経験主義的な無神論パラダイムを受け入れなくとも、聖書に対する信仰を持ち出さず、教科書どおりに理科教育を行うことは現状ではまったく可能なのである。唯一緊張をはらむ単元は「進化」の領域だが、過程上、「進化」はかなり後になってからでないと学習しない補助的なあるいは発展的な単元であるし、いまだに日本の教科書は進化を一つの仮説として記述している。
 したがって、現行の理科教育と聖書に対する信仰との軋轢は、少なくとも日本においては「進化」の単元における微妙な緊張を除いては存在しない。現に私は「そのような信仰」を持ちながら理科教師をやっているクリスチャンを複数知っているが、今のところなんの問題なくやっている。
 理科でない、学術的な研究論文にしても、信仰の有無に関係のない自然科学の論文などというのは普通であって、神の有無とは関係なく自然科学は前進し続けるところが大きい。
 このように、経験主義のパラダイムと理科、あるいは自然科学の実際の営みは常に直接的関係を持っているわけではなく、乖離している部分も大きい。理科教師の資質を問うのに、キリスト教信仰の有無は話題が狭すぎてあまり参考にならないといえるのではないだろうか。
 ところで、最初に書いたとおり、私はアメリカの事情は知らないから、アメリカの教育制度の下では、経験主義的な無神論パラダイムが理科教育に重要な影響を持っているかもしれない。しかし、それでも、外から「理科教師を辞めろ」と言うのに正当性があるのか、ということについて、私は否定的である。これについては考えを詰めていないこともあるが、とりあえず書き留めておく。