信じているふり?

 大澤真幸の『不可能性の時代』(岩波新書)を読んだ。その中で「信仰の外部委託」という概念が出てくるのだが、この内実がいまいちよく理解できない。
 

ということは、もっと率直に言ってしまえば、多文化主義の下ではほんとうは(教義を)信じてはいけない、ということではないか。これは、むしろ、信仰の否定である。もう少し繊細に言い換えれば、皆、信じているふりをしているのである。信じている人がそうするであろうように振舞うことは許されているのだ。私は信じているふりをする、あなたもそうしてもかまわない、お互い信じているふりをしあおうではないか、というわけである。/(略)たとえば、私は、神を信じているわけではないが、教会での祈禱や礼拝には礼儀正しくつきあう。つまり、信じているふりをする。なぜか。私ではない誰かが、信じているからであろう。つまり、私の振る舞いは、その「誰か」の信じていることを前提にしており、その誰かの信仰の圏域に属しているのである。

 他に泣き女の例も挙げられている。泣き女がなくことで他の参列者(共同体の成員)も泣いたことになるんだって。なんとなく分かるような気もするけど、うーん。
 誰かが信じていると、自分も信じたことになるという理屈が理解できない。「相互受動性」ってなんなんだいったい。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)