ある種の行為における責任の領域

 僕は前から少年犯罪に興味があるのだが、以前は少年法を原則的に維持していくべきだと考えていた。けれども、最近は厳罰化もやむなしかもしれないと思い始めている。ただ、そのための条件として、こどもが小さいうちから自分の行為に対してきちんと責任を取る練習ができるような段階的な教育カリキュラムや社会制度の整備がなされるのが先ではないかと思っている。
 少年法自体をほとんど勉強していないのであくまで暫定的な考えだが、凶悪な少年犯罪が急激に増えたということもなく、むしろ60年代以降激減したという統計的な事実を考えると*1、日本の少年法は比較的うまく機能してきたと考えるのが妥当であり、最近話題になることが多い被害者やその家族の感情にしてもあまりにストレートにそれが司法の場に持ち込まれてしまうのは危うい気がする。多少の改良は必要かもしれないが、根本的に少年法を消滅させてしまおうとするような考え方には賛成できない。前述したように厳罰化には必ずしも反対ではないが、それも条件付きで進められるべきであると思う。
 また、少年犯罪については少年法以外にも少年犯罪を取り巻く社会制度や社会構造に関して多くの論点があり、僕の関心は少年法よりもむしろそれらの方にある。少年法の是非ばかりが声高に語られ、その他の論点が霞んでしまうとすれば問題である。
 さて、この文の本題は少年犯罪や少年法のことではない。ここで問題にしたいのは責任の領域というものについてである。少年犯罪はあくまで一つの例であるが、凶悪な少年犯罪が起こり、大きく報道されると、その犯罪行為は本人に責任を帰すべきか、それとも外部環境に責任を帰すべきかという言説に二分されることが多いように思う。最近は主に前者のほうが勢力の強い言説であろう。僕自身はずっと本人に責任を帰すタイプの言説に対してとくにそのお祭り騒ぎ的でゲスな語り方に嫌悪感があり、外部環境、特にマクロな社会構造の面から少年犯罪をとらえるべきだと考えていた。そうするとあたかも少年を「無垢な存在」として免罪するかのような印象を与えやすいわけだが、僕としては決してそのようには考えてこなかったつもりだし、免罪はダメだということははっきり思っていた。ではどういう風に考えていたかというと、責任の配分バランスの問題として僕はとらえていたのではないかと思う。社会には何%、本人には何%の責任がある、という風に。しかし現在の僕の考えでは、そのように一つの責任の量を配分するということは間違っている。ある行為について、その行為を行なったそのものの責任は100%本人に求められる、というのが今の僕の考えである。しかしだからといって、本人をその行為に至らせた人間や環境(を維持する社会構成員)を免責するということも間違っている。どちらかにある責任があるからといって、もう片方の責任が軽くなったり免責されたりするということは、その行為が本人の意志に基づいてなしうるものである限りない*2、と思う。
 従って、ある少年犯罪の責任はまず本人にその行為の責任がある。しかしそれはその社会の構成員の責任を免責しない。このことは少年犯罪以外のことにも当てはまる。例えば自爆テロ、いじめ自殺にも適用される。これらは少年犯罪と違い、一転「被害者」、「被抑圧者」として表象される人々の行為だが、やはりその行為そのものの責任は本人が負うものであると僕は考える。ただし、繰り返すように、だからといって彼らをそうした行為が行なわれてもおかしくない状況に追いやった責任が消滅するわけではないし、その責任こそが行為を行なった本人の責任よりも強く追及されるべき場合も多くあることは間違いない。「抑圧」や「加害」の責任は現在は隠蔽される傾向があり、自己責任を求める傾向が強いことも考え合わせると、「本人の責任」をはっきりと述べることが、本当に責任を追及されるべき側の免責を導いてしまうような事態は注意深く避けなければならないし、むしろ「加害」や「抑圧」の責任を曝露していくことの方が強く求められるとも思う。 

*1:広田照幸『教育不信と教育依存の時代』、土井隆義『〈非行少年〉の消滅』等に掲載されているグラフを参照、070802追記:厚生労働省の「犯罪白書」をできるだけ参照せよ。

*2:「ある種の行為における」というタイトルはこのことを指す。