モテ・非モテというカテゴリーが浮上したのはなぜか

 モテ・非モテというカテゴリーが最近広まっているらしい。僕自身はこの手の話題にはまったく関心がなかったのだが、モテ・非モテというカテゴリーがもてはやされる原因についてこんなことかもしれない、と思うところがあるので少し書いてみようと思う。
 モテ・非モテというカテゴリーは、ある人物をある属性に帰属させるタームである。モテ・非モテというカテゴリーを当てはめることによって、あいつは(自分は)モテだ、あいつは(自分は)非モテだという、ある属性に基づいた言及が可能になる。これは事実をそのまま述べただけだが、問題なのはなぜ、わざわざそのようなカテゴリーが“必要とされる”のかということである。より正確には、なぜ、現在必要とされるようになってきたか、という問題である。
 恐らくその理由とは、人格というものの把握が、「断片的な属性の集積=ある人間の人物像」という図式によってなされるようになってきたからではないかと思われる。それは言い換えると人間の性質を簡便に把握するための省力化である。それだけ人間同士の共通理解(の感情)というものが不可能になってきているということかもしれない。人格というものを何らかのカテゴリーに落とし込むことで、「相手(あるいは自分)のことがどんな人間なのかわからない」という不安が解消されるということはあるだろうと思う。
 また、共通のものが少なくなるということは、様々な選択がことごとくその人の「個性」として認識されてしまうということも意味している。特に経済的に均一化の度合いが大きい場合には消費されるものの差は経済力の差というより単なる選択の差ということになるだろう。*1そうなると、何気ない一挙手一投足が、すぐさま「それを〈選択〉した」という意識的な行為とみなされてしまい、そして「そういうものを〈選択〉するようなタイプの人間」という人格的な理解へと結びつく。*2
 このように考えてみると、モテ・非モテというカテゴリーは、一方で自他のアイデンティティーの認識の困難さを解消するためのツールであり、もう一方では、社会の共同性が薄まって全体が個人化した社会状況における成り行きとして現れた人格理解のあり方の副産物ということになる。
 このような状況理解に基づく考察は、昨今の江原啓之の人気に代表されるようなスピリチュアルブームの分析にも応用できるかもしれないと僕は考えている。

*1:格差社会が本当だとすると、今後この認識は変更を迫られるかもしれない。

*2:勉強不足でよく分からないがこれが再帰性というものだろうか。