『「丸山真男」をひっぱたきたい』について

 赤木智弘の論文『「丸山真男」をひっぱたきたい』を読んだのでそれについて思ったことをメモしておく。

この論文の依存する文脈

 赤木は、この論文のタイトルに「丸山真男」という象徴的な名前をカッコつきで入れており、そしてそれに「ひっぱたきたい」と繋げた。このことは、「既存左翼の否定」を象徴的に表してるのではないかと思う。より正確には、そういう文脈の中に自ら取り込まれている、といえるのではないだろうか。
 赤木論文が載ったのは2007年1月の『論座』だが、そこには『論座』が何かしらの変化を求めているということがあるように思った。それほど確証のあることではないのではっきりとはいえないが、最近見聞きするようになった議論として、「既存左翼がいかにダメであるか」ということを論じるものが増えている感触がある。具体的な例としては、内藤朝雄の「論点抱き合わせセット」批判、後藤和智の「俗流若者論左翼」批判があげられる。『論座』も何年か前にクールに憲法だか改憲だかを語るという特集をやっていた気がするし、既存の論理ではどうもうまくいかないということを感じた左翼やリベラルな人々が別の方向を模索しはじめているという推測は妥当だと思う。
 それで一応左翼論壇の方にいる『論座』が既存左翼を批判する赤木論文を載せるというのは、「生まれ変わる自分たち左翼」という枠組みの演出ではないのか、という疑いを僕は捨てきれない。さらに、そうした方向転換が歯止めを失ってしまうことに対する危惧がある。赤木論文では本心はどうあれ字面上は戦争の肯定に大きく傾いていることがその例だが、新しい方向の模索というのが単にいままでの主張を弱めるとか反対の意見に変えるということに矮小化してしまわないか心配である。
 また、「左翼」という単語にネガティヴなイメージをすべて負わせてしまう議論のあり方も問題だと感じる。赤木論文ではいきなり「左翼は」という語り方で一括りにした批判がなされている。内藤朝雄も左右の枠に囚われないリベラリストの独立勢力などという議論を展開していた。そういう括り方にはほとんど意味がないと思う。

赤木の代弁

 赤木は論文の中で彼自身と彼の同世代人をクロスさせて論じている。そのため、彼自身の認識と他の同世代人の認識の区別が難しい。例えば以下の記述はどうであろうか。

小泉政権は改革と称して格差拡大政策を推し進めたし、安倍政権もその路線を継ぐのは間違いない。それでも若者たちは、小泉・安倍政権に好意的だ。韓国、中国、北朝鮮といったアジア諸国を見下し、日本の軍国化を支持することによって、結果的にこのネオコンネオリベ政権を下支えしている。
 そこで当然、「それは本当に、当の若者たちを幸せにするのだろうか? 安直な右傾化は、若者たち自身の首を絞めているだけなのではないのか?」という疑問が提示されることとなる。だが私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う。

 この代弁は果たして本当だろうか。特に「流動化すれば」というところまで多くの若者は考えるだろうか。戦争を望むようなことがあるとしても、それは虚無的な心情からの投げやりな願望だと考えたほうが妥当ではないか。あるいは、赤木の批判する識者たちの言うように、大いなるものと結びつきたい願望と考えるほうがより妥当ではないか。赤木の想定する彼の同世代人はあまりにも戦略的にものを考えすぎる。別に愚民論を振りかざすわけではないが、赤木の認識の妥当性については留保するべきである。