疑似科学批判に感じる余裕のなさ

 これは大塚英志吉本隆明との対談『だいたいで、いいじゃない。』の中で表明していたことだが、少し前までは宇宙人と交信できるとか電波なことを言う人は面白がるネタの対象だったはずなのに、最近は必死になって論破することに力が注がれている、これはなんだかおかしいのではないか、という。吉本隆明も、オウム真理教が浅原の入った風呂の残り湯になんらかの効能があるという主張に対して科学的に論破する態度はダメだということを言っていた。
 最近江原啓之のスピリチュアルカウンセリングとか水の科学とかが疑似科学として話題になったが、それらに対するある種のバカにするやり方とか、論難というのが、どうにも必死すぎる感じがしてならない。これはやはり大塚が言うように、「余裕のなさ」の表れなのだろうかと思う。
 何に対する余裕のなさかといえば、それはリアリティの土台に対するものだという感じがする。その詳細についてはきっとラカン精神分析とかが分析するのかなーと想像。