山中恒『おれがあいつであいつがおれで』を読む

この作品の枠組

 思春期、と呼ばれる時期がある。大辞林によれば「第二次性徴が現れ、生殖が可能となって、精神的にも大きな変化の現れる時期。ふつう12歳から17歳ごろまで」がそれに当たる。
 山中恒の作品『おれがあいつであいつがおれで』はまさに思春期の開始時期とされる12歳の小学6年生の男女が主人公であり、その基本的枠組みは児童文学に典型的な一種の成長小説といってよいだろう。作品の語り手である斉藤一夫は、転校生で幼なじみの斉藤一美にやり込められ、はらいせにタックルしたところそのはずみで二人の心と体は入れ替わってしまう。二人は互いに相手の家で暮らさなければならなくなり、様々な騒動が起こっていくが、最後には二人の心はもとの体に戻る。
 この物語の大まかな構造はいわゆる「行きて帰りし物語」である。主人公が今いる世界から別の世界に移動し、再びもとの世界に帰還する、というプロットを持った物語をそのように呼ぶ。考えてみれば実に多くの物語が「行きて帰りし物語」の構造を持っているということに気がつく。鬼が島に行って戻ってくる桃太郎、竜宮城に行って戻ってくる浦島太郎、地上に来て月に帰るかぐや姫、等々。恐らく、「行きて帰りし物語」は物語として最も基本的な形式であると考えられる。
 そのような「行きて帰りし物語」の形式は、文化人類学における「通過儀礼(イニシエーション)」という概念と構造的に同一であると思われる。通過儀礼という用語の概念定義をめぐっては専門家の中でも議論があるようだが、大まかには共同体や組織への加入儀礼のことを指すと考えて良いだろう。また、特に共同体の成員=大人という枠組みを切り取って、通過儀礼=大人になるための儀式としても、それなりの妥当性があると見てよいだろう。かつてのような村落共同体の解体された社会において通過儀礼は可能かという議論もあるがその点についてはあとで述べる。ところで、この通過儀礼は〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という3段階の構造を持っているとされる。いままで所属していた集団から一時的に切り離され、新たなカテゴリーを付与されて再び集団の一員となるプロセスについて定式化したもので、身近な例では会社への入社を通過儀礼と見ることができる。また、完全に「成員」となる前に段階的に儀礼を繰り返すことで共同体への定着を強化するという議論もあり、それに関しては例えば学校教育における入学式・始業式・終業式・卒業式等がその例に当たると考えて差し支えないだろう。

性の入れ換えの意味

おれがあいつであいつがおれで』において斉藤一夫と斉藤一美が成長する過程は、互いの心が(特に性別に関して)互いから〈分離〉し*1、その状態のまま様々な事件が起こる〈移行〉期を経て、再びもとの体に戻る〈再統合〉という通過儀礼として読むことができる。この通過儀礼は、互いに異性である主人公たちの性を入れ替えることをきっかけとして発動され、駆動されている。正確には入れ替わったのは<心>であり、<性>だけではないといえるかもしれないが、しかしながらお互いが<入れ換わった>という出来事について、最も鮮明に意識させられ、また作中で繰り返し強調される部分は特に<性>についてである。
 性の入れ換えが起こったとき、通過儀礼の枠組みでは〈分離〉段階の変化が起こったと捉えられる。この〈分離〉というのは、強い言葉で表現すれば、いままでの〈日常性〉の破壊である*2。それゆえに、<分離>後の<移行>段階では<日常性>との対比において、秩序崩壊的な一種の猥雑さ(暴力性、死、性的逸脱等)がもたらされることが多いと考えられる。一夫と一美の性が入れ替わることはまさに〈移行期〉における〈非日常性〉を体現しているといえるだろう。

帰還の地平

 物語のラストで、一夫と一美の性はもと通りになる。しかし、ここで重要なのは、確かにそれぞれの<性>についてはもとに戻ったといえるが、彼らの<自己>は決して「もと通り」にならないということである。彼らはすでに互いの性が入れ替わるという体験を経てしまっている(すなわち通過儀礼を通過してしまっている)。<非日常>の世界を知らなかったときの<日常>に対して、彼らがいま立つのは<非日常>から帰還したところとしての<日常>なのだ。彼らには通過儀礼を経る前とは違った世界が見えている。
 では、具体的に<移行期>において何が起こり、どのような変化が起こったのだろうか。一言でいうならばそれは他者の視点の獲得である。
 

つづく。

*1:そして斎藤美奈子が角川文庫版の解説で指摘するとおり、体が入れ替わったことによって自分の母親から〈分離〉しなければならなくなる。このことはフロイトエディプス・コンプレックスを想起させる。

*2:<日常性>というのはそれが継続している状況下ではほとんど意識されないものだと思われる。その継続状況が破壊されることでもとの<日常性>がはっきりと認識されるということには注意しておく必要がある。しかしまた、<日常性>が破壊された状態としての<非日常性>も、もとの<日常性>を参照することで規定される。つまり<日常性>と<非日常性>は相互反照的に構築されるものとして考えることができる。そうなると<日常性><非日常性>の内容はアプリオリには決められないということになりそうだが、そのような考え方は我々の実感からは離れており、ここでは決定的な命題ではなく、ひとつの傾向として相互反照的な構築性があるという理解にとどめたい。したがってここでは〈日常〉の世界に現れる特質として生、静止的、秩序維持的な性質を、〈非日常〉の世界に現れる特質として死、動的、秩序逸脱的な性質を大まかに規定する。