夜中の繁華街

 沖縄の中学生(だっけ?)が暴行を受けた事件だけれども、「夜中の繁華街にいたなら仕方がない」とか「知らない大人についていってしまったのなら仕方がない」という人たちは、批判されると「いや、それは気をつけるべきだという意味であって、犯罪抑止のために重要なのだ」という答え方をついついしてしまうようだ。
 しかし、私は想像するのだが、彼等は本当は、犯罪に遭わないためにはどうすればよいか、という水準ではなくて、「夜中の繁華街にいること」や「知らない大人についていくこと」そのものの道徳的な善悪を言いたいのではないだろうか。ところが、それらが道徳的に悪であるということを根拠付けることはできないので、論理的な言説を作るために「犯罪抑止」という基盤を持とうとするのではないだろうか。彼らは自分たちの世界観における「夜中に繁華街などにいてはいけない」、「知らない大人になどついていってはいけない」という道徳的価値を守りたいのだが、件の女子中学生を擁護する人々はそうした道徳的価値を破壊してしまうように見えるのだろう。根拠付けのない道徳的価値を守る手段は多数派であることくらいしかないから(あるいはそれこそ犯罪抑止などの経済性があるとか)、上記の道徳的価値が共有されないということに関して彼等はあんなにも必死になるのだろう。
 だから彼等はもっと正直になって、「自分は夜中の繁華街にいることや知らない大人についていくことは道徳的悪だと信じています。でもその価値は多数派であることによってしか保証できない(あるいはそれ以外の手段による保証を認めたくない)のでこの道徳的価値を共有しない人がいることが不安です。だからこの道徳的価値を押し付けます。」と言えばいいんじゃないだろうか。