冲方丁作品のキャラクターはなぜ(敢えて)記号的なのか

 最近、冲方丁作品のキャラクターが記号的だという意見に対して、それはわざと記号的にしているのだというやり取りを見かけた。私には、わざとやっているのかどうかについて明確な判断は下せない。しかし、彼の作品は、キャラクターが非常に記号的であることが全体の構造にとって重要であるということは確かである。彼のキャラクターは、全体を表現するための奉仕者であるかのような描かれ方をしている。
 ありていに言って、冲方丁は普遍を達成しようとしている。そういえば以前、『小説トリッパー』のインタビューで、彼がセカイ系批判をしていたことを私は思い出す。*1

でも、僕が最終的に書きたいのは「彼」のさらに向こうにある第四人称なんです。だから、小説にいつまでも「君」とか「僕」あたりをうろうろされてると困るんです(笑)。

 この、第四人称を目指すことの一環が、記号的なキャラクターなのではないだろうか。
 今日、font-daさんのエントリを読んでいて、虚構的な作品の上演が悲惨な現実の中にあるところで熱狂を呼んだがそれはその上演された作品が真実の断片をそぎ落とした典型として普遍を提示していたからだ、ということが書いてあった。もしも記号的なキャラクターを全体の奉仕者として提示する冲方丁の作品が「面白い」ものである/になるとすれば、それはそうした普遍への熱狂を掻き立てるものとしてなのかもしれない。

*1:このときのトリッパーには大塚英志の「教養小説のない時代を子供たちが生きていることについて」という文章が載っていて私の本命はそっちだったのだが。しかし、冲方丁の発言を追っていると、彼は大塚英志の発言に共感しているように見えるのだが、私の勘違いだろうか。