母と私、あるいはロリコンと私

 ここで言うロリコンペドファイルとは異なる。森岡正博の『感じない男』に準じた意味で使う。
『感じない男』は私にとって非常に衝撃的というか、私の欲望というのは確かにそのようなものかもしれないという考察への糸口を与えてくれたすごい本である。
 いろいろな論点はあるが、たとえばその一つに、セクシュアリティにおける男の解釈と女の解釈の違いというのがある。ミニスカや少女アイドルに対して男性が感じる性的な反応は、実は女性には理解しづらいもので、男性がどうしてその対象に欲情するのかを女性は正確に捉えられない傾向があるようだという指摘は重要である。つい先日も、『千と千尋』で千尋が売春をさせられている、という解釈をめぐって紛糾したブログ記事を読んだのだが、これも男性の性的な解釈枠組みと女性のそれとが違うために起きた齟齬が大きな問題かもしれない。『千と千尋』をめぐる私が見かけた紛糾は、全体のテーマをちゃんと見ているのか、細部に過剰にこだわって全体が見えていないのかという対立で、売春をさせられているのか否か、というのが主要な論点ではなかったが、しかしその論点が全く関係していないようでもなかった。千尋が売春をしているとみなせるかどうかは、男性がミニスカに対してパンツが見えそうで見えないところに欲情しているのに対して、女性は、足がきれいだから欲情しているのだと思うといった事態に似た認識のずれが関係しているのではないだろうか。
 他にこの本が提出している解釈として、ロリコンは母からの独立、決別をしたいという思いが関係しているという主張は、私にとって他人事ではない。普通、ロリコンは大人の女性と関係することができず、母にすがるかのごとき幼児性ゆえに少女と関係すると思われている。しかし森岡さんはそれとはまったく反対のことを言っている。これは宮崎アニメを見るときにも参考になる解釈である。宮崎アニメには少女に対する執拗な視線、ときにロリコンと呼ばれもする原因になる表現*1が構成要素として含まれているが、それと同時に、宮崎アニメではしばしば母性が重要な役割を占めているということがある。宮崎アニメにおいて、少女へのロリコン的な傾倒と、母性への執着はセットなのである。宮崎駿の個人史が載った本を読むと、宮崎には母との間に大きな葛藤があったと言うことが窺える。ここに、ロリコンと母からの決別に因果関係があると言う森岡さんの主張が当てはまるように見える。 
 しかし、先日言及した斎藤環さんの『母は娘の人生を支配する』の中では、母に対する反抗もまた、反抗という行為によって母との関係を持ち、母の呪縛の圏内にあるのだということが書かれている。だから、もしも私たち男性の心の中で、母との決別が完全に行われていなかったとしたら、母との決別がロリコン的傾向を生み出したというより、母と決別しようとする運動そのものがロリコンなのだと述べるほうが正確になる。

感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

*1:パンチラとか