後藤和智さんについて少し

 私は、最初後藤さんが出てきたときに、なかなかいいことを言う若い人が出てきてくれたではないか、と思っていた。しかし、そうした同族意識にも似た感情は長くは続かなかった。というのは、彼の最終的にやろうとしていることがいつまでも見えなかったのだが、結局のところ(若者論の正しさや間違いとは関係なく)若者に批判的な言説が嫌いなだけなのだとしか思えなくなったというのが一つある。つまりあまりにも志が低いというか、レイヤーが低いように見えて、それが急速な関心の低下につながったわけである。もう一つ決定的だったのが、彼があちこちで、あからさまに、「自分が犯罪者に見られるんじゃないかと思った」という動機を吐露していることだった。つまり、彼は犯罪を犯すようなオタクたちと自分は違う存在だ、という線引きをしたいのだ。自分は社会にとって安全極まりないただの善良なふとっちょのオタクです、というアピールをしているのだ。私はこの後藤さんの動機に対して、失望するよりも、むしろ批判的でさえある。これは後藤さんに限ったことではなくて、オタク文化を語るオタク一般について広くいえることだが、表現の自由を盾にして、自分たちの享受しているメディアの性質について、批判的に検討することをあまりにも怠っている現状がある。無論、自分たちで批判しなくても外側からのオタク批判というのは常にあり、しかもそれらの外部からのオタク批判というのがそれこそ俗流若者論的なものやよく練られていない感情的なものが大半であるという問題はある。しかしだからといって、あらゆる批判を封じるような全肯定へと短絡するべきではないだろう。
 私自身の話としては、素晴らしいものとしてのまんがやアニメと、性的な欲望の満足を前面に押し出したまんがやアニメ、あるいはすばらしいと感じるものの中にも存在している性的あるいは暴力的な描写の存在との折り合いをつけられないことは一つの問題としてある。この話題に関しては、「なにを見ようと自由じゃないか、規制につながるような話はよせ」という流れにたいていはなる。しかし、引っかかるのは、「別にいいだろ」ということしか語られないことがほとんどだということである。性的な欲望の満足や暴力があふれる作品はこんなにもすばらしいのだ、という意見はなかなかお目にかかれない。これはやはり、そういう表現にある種の後ろめたさがあるからではないのか。正直言って、それが規制されるべきか否かというような問題はきわめて周辺的なものである。真の問題は、私たちの欲望の根源であり、その実態なのだと私は思う。その意味ではやはり宮崎アニメとて、例外にするわけにはいかないとおもうのですよchazukeさん。