お前はもう、知っている

 ローマ人への手紙1章によると、神の存在は自明だということになる。自明だから、それは誰もが知っているということになる。これは絶対、「そんなばかな」という反発にあう。
 ここで、知っていながら否定する、というケースがあるかどうかを考えてみる。ジジェクという人は、認識にはオブジェクトレベルとメタレベルがあるんだ、ということを言っているらしい。その線でいけば、オブジェクトレベルでは知らないが、メタレベルでは知っている、ということが有りうる。それは無意識のことである。この分類法は、大澤真幸の『不可能性の時代』でジジェクをひきつつ言及されている。p.230からの「信仰の外部委託」という節からの話をしてみる。大澤によれば、多文化主義の世界では、人々はそうとは知らずに信じているということになる。どういうことか。
 まず、多文化主義の世界では、何を信仰するかは自由であるかのように見えながら、本当は信じることが禁じられている世界である。なぜなら、本気で信仰することは、多文化主義の否定に他ならないからだ。だから、多文化主義的世界においては、信仰はあくまで個人の趣味にとどまるようなものではなくてはならない。だから、多文化主義的世界は、信じることを否定し、信じているふりをしていることを承認する世界である。しかし、そのような世界では、人々は他の誰かが信じているということは想定して行動する。信じている他者を前提として行動する以上、実はその人は信じていることになる。そのことは思想用語では相互受動性と呼ぶらしい。
 自分自身、そして自分の属している圏域の外部に信じている他者を想定することができるからこそ、「自分はあの人たちのようには信じていない」と主張することができる。信じている、ということは、信仰の内部にいるのだから、知っていることにもなる*1
 そうであるならば、(多文化主義的なタテマエを捨てて)宗教を全否定してしまえば信じていることにならないかというと、そうではない。なぜなら、神以外のもの(たとえば貨幣(へのフェティシズムがあるという想定))を「神」に代入することによって、少なくとも神を信仰する形式だけはどこまでもついて回るからだ。
 大澤はそこから「真の無神論」という話へと接続していくのだが、それについては私は違和感の方が多い。追々考察することにしよう。
 また別の観点からの話だが、分析哲学における帰納法をめぐる問題がある。最近飯田隆の『クリプキ』を読んだのだが、クリプキは『ウィトゲンシュタインパラドックス』の中で、我々が使っていることばが何も意味しないのだと主張しているらしい。というのは、帰納法の正しさは論理的には証明できないから、いままでこれこれの意味でこのことばを使ってきた、と言っても、これからもそのことばが同じ意味を持つとは言えないからである。クリプキはこれをウィトゲンシュタインの議論から引っ張ってきたらしい。しかしウィトゲンシュタイン研究者のほとんどはクリプキウィトゲンシュタイン解釈が間違いだと言ったという。そのときクリプキ批判つまりウィトゲンシュタインの真の主張として以下の文章が示される。

 われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜならば、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるからである。その答えはこうであった。すなわち、どんな行為の仕方も規則と一致させるようにできるのならば、それと矛盾させることもできる。それゆえ、ここには一致も矛盾もそんざいしないことになる。
 ここにある誤解のあることは、こう考えるときわれわれは解釈に次ぐ解釈を行っている点にすでに示されている。それはまるで、その解釈の背後に別の解釈を思いつくまではどの解釈も、少なくとも一瞬はわれわれを安心させるかのようである。これが示すことは、解釈ではないような規則の把握があるということであり、それは、規則のその都度の適用においてわれわれが「規則に従っている」とか「規則に違反している」と呼ぶもののなかに自然に現われるということである。
 規則に従う行為はすべて解釈であると言いたくなる傾向があるのは、それゆえである。しかし、規則のある表現を他の表現で置き換えることだけを「解釈」と呼ぶべきなのである。(『クリプキ』より重引、強調部は原文傍点)

 神が存在するかどうかを議論することは、我々がすでに実践的に前提している仕方とは異なり、反省的な視点を導入することである。そこには時間的隔たりが介在している。振り返ると、それはもうそこにはない。
 実は、入不二基義などは相対主義は自己矛盾に陥らないとか、相対主義論と時間論と運命論が重なるんだというような話をしていて、そちらの方は追えていないのだが、後々、それらも考慮に入れて、今回の記事は自分でたたき台にしていこうかと思う。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

アイロニカルな没入については前著の『虚構の時代の果て』の方が詳しく解説されている。
増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

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*1:もちろん、意識的に信じているわけではないというのは、意識的に信じていることとは大きな溝がある。アイロニカルな没入を通して信じるというのは、あくまでもメタレベルでの話であって、本当に信仰の内実の話をするなら、メタレベルだけの話では無意味である。