イメージの制約について

 斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』を読んでいて面白かったことの一つに、空想の生き物が皆、既存の動物のパーツの組み合わせであって、完全オリジナルなイメージでは造形されないというのがあった。
 それで私が思い出したのがフライングスパゲティモンスター(だったっけ?)の話で、あれが聖書の神という概念と並置できない理由は、やはり既存のイメージの組み合わせの産物だという点が大きいだろう。フライングスパゲティモンスターは少なくともスパゲティ様で生物的な身体を持っていなければならないが、神にはそういう制約がない。いわゆる神々のイメージは非常に多用だが、それも固定的なイメージの制約をあらかじめ免れていることの裏返しである。
 そういえば科学哲学の話題においても、目に見えるか見えないかというだけで、電子の実在の是非が真剣に議論される。想像界に縛られている人間というラカンのアイディアは結構いろいろなところで使えそうだと思う。

追記:間違えた。斉藤さんが言っているのは、モンスターの造形が言葉に依存しており、言葉の操作によって造られているということだった。それゆえ、言葉に制約される=オリジナリティを出すのはほぼ不可能、ということになるらしい。
 とはいえ、イメージによる制約という話自体はそれとして成り立つ。また、言葉の面から見ても、フライングスパゲティモンスターが複数の概念を組み合わせた言葉であるのに対して、神という言葉は一語で何らかの対象を表現しており、両者はレイヤーの異なる言葉だと言える。
 他には、たとえば、神は、偶像のような形で物理的に指示対象となることもあるが、しかしそのときその指示対象は単なる石や木の塊ではなく、意思を持った呪的存在として扱われる。つまり、物理的な性質は神概念の本質ではないということだ。しかし、フライングスパゲティモンスターはその物理的性質が本質的な事柄として付随する。

生き延びるためのラカン (木星叢書)

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反・進化論講座―空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書

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