霊とたましいとからだの区別についてのメモ

 聖書は、人間が霊とたましいとからだを持つことを示している。しかしこれら3つの区別や互いの関係がどうなっているのかを読み取るのは大いに困難な作業である。感覚的には、霊とたましいは区別がつきにくいが、からだは他の二つとの違いが明確であるように思われる。これは俗に言う精神と物質の違いに対応して考えやすいためだろう。からだと他の二つとの区別・関係も、考え始めるとなかなか難しいのだが、ひとまず目で見えるものと見えないものの違いを主要な点として、からだと他の部分は区別されるだろう。
 しかし、霊とたましいはどこが違うのかということは、そもそもどのように記述され分けられているのかということさえ、漠然とした読解では読み取ることが難しい。
 この二者のうち、たましいについては、最近、ペテロの手紙第一の記述が大きな示唆を与えてくれていると考えるようになった。ペテロ第一には、「たましいの救い」ということばが出てくるが、どうもこれは「立場としての救い」ではなく、「状態としての救い」を言っているように思われる。逆に言えば、聖書は、立場としての救いと、状態としての救いを分けて記述している。さらに言うなら、聖書には立場としての救い=霊の救い、表出される状態としての救い=たましいの救い、からだの救いという3つの救いが分けて記述されているように思われる。*1
 ペテロ第一の記述についての私の見解はこうである。ペテロは、この手紙の中で、艱難を乗り越えた後に、将来与えられる「報い」について言及し、また、聖い生き方についても教えている。その文脈の中で「たましいの救い」ということばがつかわれている。また、ノアの箱舟を例にとって、「いま私たちを救うバプテスマ」についても述べているが、このバプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への応答であるとも続けて書かれているから、ここでの「救う」というのは、罪の汚れを除き去られた立場としての救いのことを述べていない。罪を取り去る救いとは異なった救い、すなわち「たましいの救い」は、聖別された生き方、それによって与えられる報いの実現を一まとまりのものとして表現している。聖別された生き方ができるのはたましいの救いであり、またそれを全うすることによって報いを受けることもまたたましいの救いである。
 立場としての救いはすでに与えられているが、しかし人間は弱さゆえに失敗する。すなわち救われた人間であってもその性質はいまだ完全ではない。ここで霊とたましいとからだの区別を参照しつつ考えると、からだは現在不完全であることは明白であり、その救いは将来に起こる。また霊の救いはすでに得ている。ではたましいはどうか。我々が「救われて」おり、それゆえに発する神の前に良い行いがあるにもかかわらず、なお悪しき考えや感情を持つのは、このたましいの状態に幅があるからではないか。つまりたましいは救われつつあるのではないか。たましいは徐々に聖められていき、からだの救いと同時にたましいの救いも完遂されるのではないだろうか。こう考えると、たましいは目に見える部分と目に見えない部分の両方にまたがった性質を持っているように思われる。つまり心のうちにあることと、行為としてあらわれることの両方にまたがっているもの。 

*1:たましいの救いを行いとその報いとしての救いとするなら、からだの救いの方を状態としての救いに改めて分類しなおしてもいいかもしれない。というのはからだの救われることはとりもなおさず状態として救われているということになるから、たましいの救いを状態の救いとすると区別がつきにくくなる。