事後的なもの

 事後的に分かる、ということは、即虚構であるというわけではない。少なくとも、明確にそうであるとは言い切れない。たとえ事後的に判明したものだとしても、それは決して後付けではなく、隠れていただけで実は最初から本当にそうだったのだ、という判断もありえる。それにもかかわらず、事後性をことさらに強調してその虚構性を声高に言い立てようとするということには、何らかのやましさ、隠蔽しようとする焦りがあるからではないのだろうか。類化する、というのは避けられない思考の傾向なのかもしれないけれども、類に過ぎないということの連呼がいまとなっては不毛さしか呼び起こさないのは滑稽である。