笑い

 以前、大澤信亮新現実の「マンガ・イデオロギー」で書いていた気がするのだが、笑いというのは日常の中に隠蔽されているもの*1を暴露するものだという話があったと思う。
 そう考えると、ようするに笑いというのは内輪の空気、コミュニケーションの中で暗黙の了解となっている諸前提を利用して発生していると言えるわけで、笑いは国境を越えないと言われるわけも納得できる。
 で、斎藤環が書いていた気がするのだが、日本ではオヤジギャグが嫌われるのはなぜかと言う話があった。フロイトによればそういう言葉の韻を踏むようなやり方は基本なのに、というような話だったと思う。それについて仮説として考えたんだけど、言葉というのはコミュニケーションの前提としてあまりにも基本的過ぎるのかなと思う。オヤジギャクでない笑いが、コミュニケーションに参入した中で構築されるのに対し、オヤジギャクの笑いはそもそもコミュニケーションに参入できる可能性があるかないかというレベル、ことばを話せるかどうかというレベルが「内輪」の範囲になっており拡散している。つまりオヤジギャグというのはコミュニケーション前提の隠蔽度が低く、それゆえ暴露性も低いがゆえに、笑いをもたらさないということなのではないだろうか。

*1:行為の解読規則みたいなもの?