政治活動と信仰

 ここでいう信仰はキリスト教的な信仰のことだけれども、政治的活動を通して自分たちの信仰内容を一般的に認めさせようという活動はいったいなんなんだろうな、ということを時々考える。
 だいたい、信仰を持つというのはこの世の中のものに重要な価値を見出さないということであるはずだ。汚れた肉のからだを脱ぎ捨て、この世ならざる天国に行くのが目標なんだから。そうであるならば、この世の中で自分たちの信仰内容が一般的に認められようが認められなかろうが、それほど大きな問題ではないはずだ。まあ、認められないとやり難いこともあるかもしれないけど、基本的に信教の自由は認められているのだからいいだろう。
 だからといって、「勝手に信じているのはいいが、こっちにも信じろというのはやめろ」というのは、まあ言うのは自由だろうけど、無意味なことばである。相手はそういう「勝手にやってれば」という価値観の中には生きていないのだから。