宗教は争いを引き起こすという話が

 山内志朗さんという哲学者の本を手にとってみたら、冒頭でいきなり「ぼくのやってるのは宗教なんかとは違うぞ、宗教は争いをたくさん引き起こしてて哲学に比べてだめだめだな!」という趣旨のことが書いてあった。私は常々「宗教」といういいかげんなものの括り方を嫌っていて、山内さんは『天使の記号学』とか『普遍論争』とか面白そうな著作があるなあと思っていたところだけに、そういういいかげんなことを言う人の本はなんだか読む気が失せてしまって残念に思う。
 

笑い

 以前、大澤信亮新現実の「マンガ・イデオロギー」で書いていた気がするのだが、笑いというのは日常の中に隠蔽されているもの*1を暴露するものだという話があったと思う。
 そう考えると、ようするに笑いというのは内輪の空気、コミュニケーションの中で暗黙の了解となっている諸前提を利用して発生していると言えるわけで、笑いは国境を越えないと言われるわけも納得できる。
 で、斎藤環が書いていた気がするのだが、日本ではオヤジギャグが嫌われるのはなぜかと言う話があった。フロイトによればそういう言葉の韻を踏むようなやり方は基本なのに、というような話だったと思う。それについて仮説として考えたんだけど、言葉というのはコミュニケーションの前提としてあまりにも基本的過ぎるのかなと思う。オヤジギャクでない笑いが、コミュニケーションに参入した中で構築されるのに対し、オヤジギャクの笑いはそもそもコミュニケーションに参入できる可能性があるかないかというレベル、ことばを話せるかどうかというレベルが「内輪」の範囲になっており拡散している。つまりオヤジギャグというのはコミュニケーション前提の隠蔽度が低く、それゆえ暴露性も低いがゆえに、笑いをもたらさないということなのではないだろうか。

*1:行為の解読規則みたいなもの?

エロと表現の自由その2

 表現の自由がどうでもいい、と書いたけど、2つの意味でどうでもいい。1つは表現の自由という思想がどうでもいいということと、もう1つは今回の件において表現の自由は本質的な問題じゃないという意味でどうでもいい。
 人の心に闇だか地獄だかがあるとして、そのこととそれが表現として結実することを肯定的に扱うかどうかは別問題である。多くの人は誤解しているようだが、人の心なんてたいしたものではない。
 ともかくも、問題なのはエロである、と言い切るのにためらうのは、図書館からいきなり撤去された本が!とか聞くと「そ、そういう風潮があるのかな」などと思って、エロだけの傾向じゃないのかという気もするからだが、それでもエロに限っては最近始まったことではなく、前からつつかれていたのだから、やはり特異的に扱うべきだろう。
 というわけでやはり結論としては、弾圧すればいい、ということになる。

エロと表現の自由

 いや、話題になっていたのでちょっと考えたけど、やはり私にとっては表現の自由を巡る話はどうでもいい。ポルノなんか弾圧されたってこの世の終わりまで滅びることはないでしょう。個人的感情としては撲滅してしまえばいいと思うし、それに消極的に協力できる手段があったら協力するかも知れん。
 もちろん、自分が表現することが規制されるのは嫌だが、この記事は別に説得しようとして書いているのではないから気にしないように。自分が享受して楽しむであろうメディアについても撲滅されたらされたでそれはかまわないというのもかなりある。ラカン入門書にも書いてあるでしょ、それができるという可能性がそれをしたいという欲望を引き起こすんだよ。
 あとは、エロってなんなのかというのは考えた方がいいんじゃないかなと。どうしてそれが規制の標的になるのかも含めてね。感性の違いと言えば簡単だけど、数ある感性の中でとりわけエロが標的になるのは人間にとって何かしら特別な意味があるからでしょう。なんかな、この話題はほんとにセクシュアリティの話にならないんだよな。そんなに自分の性が分析されるのが怖いのかと思ってしまう。欲望について内省しないエロ擁護者たちにはかなり腹が立つ。ポルノがだめなんです、と自分の感覚をことばにしようと努力している人たち(主に女性)に比して、すごく怠惰だし、卑怯だ。やおい・BLの人だって、手放しで自分のセクシュアリティに居座ってるわけじゃなくて、ちゃんとやおい・BL論は書いてるのに。そういう意味では本当に森岡正博は偉大だと思う。
 ヘイトスピーチとの構造的違いがあるという主張があったのだけどそこらへんは興味がある。
 
 

事後的なもの

 事後的に分かる、ということは、即虚構であるというわけではない。少なくとも、明確にそうであるとは言い切れない。たとえ事後的に判明したものだとしても、それは決して後付けではなく、隠れていただけで実は最初から本当にそうだったのだ、という判断もありえる。それにもかかわらず、事後性をことさらに強調してその虚構性を声高に言い立てようとするということには、何らかのやましさ、隠蔽しようとする焦りがあるからではないのだろうか。類化する、というのは避けられない思考の傾向なのかもしれないけれども、類に過ぎないということの連呼がいまとなっては不毛さしか呼び起こさないのは滑稽である。

上げ底

 少し前に、エホバの証人をやめかけている青年の体験談が増田に書かれていたのだけど、その中で、別に信じていないんだけど共同体の人間関係が捨てられないから残っている人たちの話があった。
 一般的に、生きている中でよく考えて自分から選び取ってそうしていることというのは結構少なくて、そこに居心地のいい人間関係が有ったからなんとなく所属している、というような、一種の上げ底の上に生活している部分が、別にカルト宗教に限った話ではなくて、人には大きいと思う。そういう上げ底を否定したいわけではないのだが、しかし、そういう上げ底で左右される判断というものを考えると、人間の弱さを感じる。ああ、弱いんだな、といううめきというかつぶやきというか。
 今とは違うまったく別の世界に参入していくときでさえ、よく考えた上での選択というよりは、上げ底的な要素に魅力を感じているからという動機はわずかでも入り込んでいると思う。実際、件のエホバやめかけの人は「リア充」という上げ底でいままでの上げ底を代替したのだというようにしか思えない。
 上げ底を否定しきらず、しかし実際面では上げ底のない判断ができるか、というのは切実なものだ。
 

なんとなく同じテーマで読めそうな本をメモしておく。

・キャシー・カルースの本
・ジュディス・ハーマンのあれ
下河辺美知子の本
・名指しと必然性
・フランソワーズ・ドルトの本(ラカンの片腕だったらしい)。