機動刑事ジバン

 昔見てたんですが、敵のラスボスが、今までただの敵だと思っていたのに実は自分たちの垂れ流した公害から生まれた怪物だった、ということが明かされるんですよね。つまり事の原因は自分たちにあったという。70年代を経験した後の表現と言えるかもしれない。
 実は公害というのは、素朴な物語を信じられなくなる時代の一つの象徴のような出来事だったかもしれない。高度経済成長の裏面という事実によってもそう言える。つまり正義の根拠がなくなっていったという。

生のものと火にかけたもの、という話がありましたが

 この間聖書を読んでいたら、いけにえを生で食べるか焼いて食べるか煮て食べるかに三角関係が成り立っているんじゃないかと思いました。いけにえを食する、というのはイエス・キリストを覚えるということです。
 生で食べるというのは表面的に覚えるということで、幕屋でいえばジュゴンの皮を見ることに当たる。焼いて食べるというのは、もっとも深い部分を覚えるということで、神としての栄光を覚えるということになる。煮て食べるのはその中間で、人であるが完全であるということを指すのかな。煮て食べることについてはまだはっきりとは。
 また、地―山ー天にも三角関係は成り立っている。地はこの世で汚れている、天は神の領域で聖い、山は人と神が出会う場所、神が人にみこころを示す場所。天ではないが、地と区別されたという意味で聖なる場所。

 追記:生のままで食べるように規定されているいけにえの箇所は無い。つまり、食べる方法のとしては提示されるが実際には行ってはならない方法。

例の表現規制問題についての適当なつぶやき

 なんというか、この件は取り乱す人が多かったように思います。最近は、以前は割りと「はてサ」とその周辺として識別されていた人たちの間に様々な論点で対立が浮き彫りになるようなところがあるようにも見えますね。この件もそんな感じだった上に、どうも心の琴線に触れるようなところがあったみたい。性の話題は難しいということでいいですか。
 実際に規制が行われるとなると、どうもちょっとバカなんじゃないかという議論に基づいてなされることになるというのは分かりきっていたことではあるんですが、やっぱり規制/反規制の枠をはずして考えない限り進展はないのだなこの話題はと繰り返し思う。規制はまあ外的な権力の行使としては厄介な面もあるんだけど、規制があろうがなかろうが、表現と欲望はそこにあるというわけで。

日常生活

 大学時代の友人から電話があった。なんでも就職が決まらず、焦ってさらにいい加減な就職活動をしてやはり決まらない、という悪循環に陥っているらしい。この不況下、やはり就職を控えた学生は大変らしい。
 ところで、学校教育で教えられている仕事というのは、少なくとも私の頃は、自分のやりたいこととか、夢とか、要するに自己実現になるものとしての仕事というイメージを強く植えつけるようなものとなっている。最近は、そういう教育の仕方は弊害が大きいのではないかと思っている。実際にはそんな風にして自己実現としての仕事をするというのは容易なことではないからだ。自己実現になりそうな仕事につける人数は限られたものだろうし、そもそも「本当にやりたいこと」なんて本当にあるのか、単に動機の語彙を後付しているだけではないのかと思える。
 確かに自分の好きなことが仕事になるのは楽しいことだと思うし、私も転職するならもうちょっと楽しんで働ける仕事がいいなあと思うが、それはできるだけそうであってほしいという程度のものだ。仕事に対する過剰な意味づけというのはなんだか不気味である。「ただ金を稼いで人並みに生活するための仕事」というあり方はどうも不可解なものとして捉えられることが多いようだ。不可解だ。

ジェノサイド

 結局のところはジェノサイドなのではないでしょうか。どんなに糊塗してみても、根本的な対立は避けられない。ただ、自分ではやるなと言われているから穏便に済んでいるのであって、それを共存の模索、みたいな話に落とし込むのはまったくの欺瞞でしかない。妥協の余地はない。そのように言うといかにもこちらが暴力的で威圧的な印象を与えるが、現状の表面的な勢力図としてはむしろ逆だし、たとえ逆でなかったとしても、いまがそのときでない以上、それが偽者であるに過ぎない。

脳の話

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

 脳科学者の連続講義を本にしたもの。前作の『進化しすぎた脳』も面白かったが、これも面白かった。
 無意識、自由意志、自己言及、時間(未来の先取り)、自己の書き換え、他者のまなざしの取り込みなど、哲学的テーマに直接参考となるような話が多かった。